baduyoの日記

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33勝基準の産声

朧げな記憶では、3場所の成績が大関昇進の判断として使用されてから33勝の成立まではそこまで時間差はない。その誕生まで見ていきたい。

 

清國の次は前乃山である。

前の山の直近三場所は、9-12-13の34勝だった。

〔読売新聞 1970年7月22日 夕刊 8ページ〕

 【名古屋】相撲協会は二十二日午前九時から名古屋市愛知県対区間で、秋場所番付編成会議を開きと理事会を開き、名古屋場所関脇で十三勝二敗の準優勝だった前乃山(二五)(高砂部屋)の大関昇進を満場一致で決めた。(後略)

これだけでは、34勝上げたら文句なしということしか分からない。

千秋楽時点では、次のような記事が出ていた。

〔読売新聞 1970年7月19日 朝刊10ページ〕

 大麒麟の”大関”ムードが高まってきた。(中略)控えにいるとき目の前で前乃山が勝ったが「いつもとかわらない冷静な気持ちだった」という。夜は「あいかわらずよくねむれる」と、少しもいら立っていない。「今場所は十一勝が目標だった」そうで、あとはもうけものという気持ちなのだろう。さきを越されかかっている前乃山の”大関”にもあわてず「お先へどうぞ」といわんばかりだ。(後略)

  前の山は千秋楽勝って34勝だから、この記事の大麒麟の目の前で朝乃山が勝って大関当確のように書いているのは33勝時点の話。

もっとも、これでもあまり決定的なものではないか。

 

 前の山に次いで大関になったのは、その大麒麟だった。

 ちなみに、前の山が昇進した場所も昇進問題は議題に上ったようである。

〔読売新聞 1970年7月23日 朝刊 10ページ〕

 (前略)二十二日の理事会では、大麒麟大関問題も話題にのぼったが「十二勝では先場所の前乃山と同じ成績」という春日野、宮城野両審判部長の説明で、議題としては取り上げられなかった。(中略)両審判部長も「あと一勝していれば……」という意見だったそうだ。こうした情勢からみて来場所の大麒麟は今場所の前乃山同様”十一勝”が大関昇進ライン。十二勝以上すれば、それこそ”待ったなし”であろう。

  図らずも前の山のラインが出てきてしまった。今場所十一勝、計32勝がラインだったようである。

 そして、来場所十一勝で大関取りとのことで、この大麒麟も32勝が場所前に設定されていた昇進ラインだったのだろう。果たして翌場所12勝を挙げ、33勝で昇進することになる。

 

〔読売新聞1970年9月25日 朝刊10ページ〕

大麒麟大関手中”の11勝

(タイトル以外略)

 

次は長谷川を取り上げたい。

〔読売新聞1972年3月30日 朝刊10ページ〕

長谷川、大関昇進見送り

(前略)春場所優勝した関脇長谷川の大関昇進については話題に上っただけで見送られた。

 そっけないが、こんな無味乾燥な記事をどうして掲載したのかというと、翌夏場所のこの記事のせいである。

〔読売新聞1972年5月26日 朝刊10ページ〕

(前略)春場所あと一勝でよじのぼれなかった長谷川、今場所復帰をかけて果たせなかった前の山らをしり目に、輪島がスターのイスにすわるには、まず優勝、それも十三勝二敗の星が要求されるだろう。輪島はきょうから残り三日間を全勝しなければならない。

というわけで、計算ができるようになった。長谷川は春場所まで8勝―10勝-12勝の30勝だったから、もう1勝、31勝で上がれていた計算になる。

 

ちなみに、この場所の主役、輪島については、10勝-9勝で臨んだ夏場所に「13勝」が要求されるとのことで、これも32勝計算となる。

 

この数日前、惜しくも春場所大関に届かなかった長谷川は翌夏場所大関取りだったわけだが、それが絶望的となった、という記事がある。

 〔読売新聞1972年5月25日 朝刊10ページ〕

(前略)長谷川は今場所11勝が大関昇進、また前の山は10勝が大関復帰の条件だったが、ともにこの日敗れて、望みを断った。(後略)

 長谷川は春場所まで10勝-12勝。この場所11勝が要求されていたということは、3場所33勝が昇進基準として課されたこととなる。

 

というわけで、あくまで読売新聞の記事を追ったのみではあるが、答えは出た。3場所33勝基準を初めて要求された明らかな力士は、47年夏の長谷川である。初めて3場所基準が明らかになった清國の昇進から、3年のことだった。