baduyoの日記

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33勝基準成立後の昇進例 魁傑―魁傑

魁傑で一度区切った理由は、1大関だったという事情があるからである。

 

といいつつなかなか面白い記事があった。

〔読売新聞 1975年1月19日 朝刊 10ページ〕

魁傑に”遺恨”はらす

(前略)大偶然とはいえ、北の湖はいやな相手といやな日に対戦したわけだが、この日は横綱相撲で白星を重ね、7連勝で単独トップに立ち、大関をねらう魁傑の夢を完全に砕いてしまった。(後略)

場所前から大関取り扱いであったこと、この時点4勝3敗の魁傑が「大関…の夢を完全に砕いてしまった」扱いになっていたらしい。

 

しかし新大関を作りたいという欲望には抗えなかったらしい。

 

〔読売新聞 1975年1月29日 朝刊 15ページ〕

大関魁傑”は微妙

大相撲初場所で11勝4敗の関脇魁傑(二六)(花籠部屋)の大関昇進問題は、きょう二十九日開かれる春場所(中略)の番付編成会議、理事会で結論が出るが、協会内部に時期尚早論もあり、昇進か見送りかについては微妙な情勢となっている。

 大関昇進の場合、問題となるのは、昇進直前三場所の成績。魁傑は、昨年秋場所7勝8敗、同九州場所12勝3敗で初優勝、ことし初場所11勝4敗で、通算30勝15敗。最近のケースでは、北の富士の28勝17敗に次ぐ低い勝率。そのほか、清国の31勝があるが、大受の34勝を最高に、ほとんどが32勝以上をマークしている。

 通算とともに、三場所前に負け越しているのがマイナス材料だが、翌場所に優勝しているため、帳消しになっているという見方もあり、それに一大関で、北の富士が昇進した四十一年名古屋場所と同じ状況にあるというのが、昇進賛成の声。

 これに対し、三場所前の負け越し、初場所が12勝ならともかく、11勝ではというのが見送り論の根拠。

 「初場所が12勝ならともかく、11勝では」という言は、その後自分が審判部長として見送った琴光喜の事例をほうふつとさせ、運命を感じる。

 

 昇進後の記事でも、相当もめた様子が伝わる。

〔読売新聞 1975年1月30日 朝刊 15ページ〕

もめた魁傑大関昇進 ”特例”なし崩しの恐れ

(前略)問題となった昇進直前三場所の成績は、7勝8敗、12勝3敗、11勝4敗で、通算30勝15敗。最近では、北の富士の28勝17敗に次ぐ低い成績で、しかも三場所前に負け越している。勝率もさることながら、この負け越しが大きなマイナス材料で、審議が長引く原因となったようだ。(中略)最終的には、負け越しではあるが、翌場所は優勝決定戦で北の湖を破って初優勝、初場所11勝で準優勝-この二場所の成績、相撲内容がいいということで昇進に落ち着いた。

 ただ、これで問題になるのは、大関昇進の基準。直前三場所が対象となっているが、これを魁傑の場合にあてはめると、負け越した場所が含まれており、昇進の資格はないといわれてもやむを得ないだろう。それを昇進に踏み切ったのは、直前に場所を高く評価してだった。審判部は「今回は特例で、建前は依然として三場所で、これは今後も崩さない」といっているが、慣例が破られたことは事実で、なし崩しになる恐れは十分ある。そして、それが”弱い大関の量産”につながりかねない。

 まず、今まで3場所の成績で判断するようになったのは見てきた通りだが、2場所前の負け越しが問題だということは、それを単純に足し算するという発想ではないことが分かった。

 それと、「建前は依然として三場所」と審判部が明言しているのは重要である。今まで読売新聞の記事に三場所の成績で見ることになっていると書かれているのは見てきたとおりだが、それが協会側の人間の発言が引用される形で示されているのはこれが初めてである。

 これすらも虚偽であると考えられなくもないが、この発言がなされたこと自体を信用するならば、協会としても三場所の成績で判断するというルールが既にあったものと見られ、翻ってやはり記事に出ていた清國の前のある時点において協会に3場所の成績で大関昇進の判断をしよう、という取り決めがなされたことがうかがわれる。 

 

魁傑の次は三重ノ海である。

〔読売新聞 1975年11月22日 朝刊 17ページ〕

三重海、北湖をつぶす

(前略)三重ノ海北の湖を下手投げで破り”優勝””大関昇進”へ大きく前進した。(中略)北の湖を破り、これで一横綱、二大関を倒した三重ノ海大関当確と初優勝へ大きく前進したとあれば当然だろう。(中略)二十七歳の三重ノ海は、さる四十七年にも大関昇進のチャンスをつかんでいるが、このときは病気(急性肝炎)で逃した。(後略)

 当確とも言ってないので何とも微妙であるが、ここまで8勝―11勝。13日目終了時11勝2敗なので、30勝で当確「へ大きく前進」ということになる。

 そして、四十七年にも大関昇進のチャンスがあったとある。その辺りの成績をみると、四六秋東前5で10勝、九小結で11勝、四七初関脇で8勝となっている。初場所大関取りだったのなら、二場所前の東前頭5枚目在位も大関取りの決定的なマイナス要因ではなかったことになり、また春場所大関取りだとすると、二場所19勝で大関取りとなりえたということになる。

 名門出羽海出身なのが有利に働いたか、というのが偽らざる感想。

 

次は旭國

 

 

〔読売新聞 1976年3月10日 朝刊 19ページ〕

旭國大関”へ淡々と

(前略)”十一勝以上なら大関”という周囲の声にも(中略)「今場所は、なにがなんでもというんじゃない。今場所十番勝てば、来場所十番でも大関になれる」といった調子で、(後略)

 8勝―12勝なので、31勝計算。また、旭國の言では、12勝―10勝-10勝の32勝ということもさることながら、直近10勝でも文句無しという雰囲気のようである。当場所13勝で昇進した。

 

次はなかなか面白い話。魁傑の昇進見送りが話題となっている。

〔読売新聞 1976年11月22日 夕刊 9ページ〕

魁傑3敗、大関は絶望

(タイトル以外略)

 この場所の魁傑は、小結5勝―西前四14勝と来ている。これで13勝取れば再大関もあったということらしい。

 一回目の昇進の時、「特例」とされていた二場所の成績での昇進が、またも実現しそうだったわけである。しかし今回は一大関ではない。とすると、一度陥落しての再大関だから昇進基準は緩くなるという理屈か。なお、今場所魁傑は西関脇十一勝に終わっているが、東関脇若三杉も十一勝だった。同成績の東関脇を飛び越えて西関脇が昇進することがあったかも興味深い。

 

その翌場所は、若三杉と魁傑の両大関取りだった。

〔読売新聞 1977年月1月6日 朝刊 15ページ〕

初場所の話題を追って下 安定魁傑、大関へ突進 若三杉、立ち合いに進境

(前略)若三杉にとっては(中略)大関昇進当確ラインは11勝以上とみられるが、(中略)魁傑は、(中略)今場所についての当確ラインは10勝以上と低く、条件は恵まれている。

  若三杉は11勝―11勝なので33勝。魁傑は14勝―11勝なので35勝。ただし二場所前が前頭4枚目という問題、再大関という問題がある。

 この記事の通りだとすると、若三杉が10勝、魁傑が10勝だった場合、またもや西関脇が同じ成績の東関脇をさておいて大関に昇進する可能性があったことになる。

 

が、実際にはそれ以前の段階で当確が打たれた。

〔読売新聞 1977年1月21日 朝刊 17ページ〕

 若三杉が、(中略)十勝の二ケタ白星をマーク、大関昇進を確実にした。

 32勝で当確となった。

 

逆に魁傑は、事前に言われていた10勝を挙げても微妙な書きっぷりである。

〔読売新聞 1977年1月23日 朝刊 17ページ〕

魁傑 大関の”夢”再び

魁傑が、大関三重ノ海に解消して、待望の二ケタの勝ち星をあげた。しかも、三場所連続、三大関を総ナメしたことになり、大関返り咲きの色を濃くした。(中略)大関の当確ラインは十勝以上と見られており、審判部は「千秋楽が終わるまで何とも言えない」としているものの、ムードは昇進に傾いている。(中略)高砂審判部長も、「基準は三場所とも三役となっている。魁傑は平幕だったが、横綱大関と対戦しているからね」と好意的な見方をしている。(後略)

  当確とはいっていない。高砂審判部長の言は貴重のように思う。三役在位となっていると言っている。しかし、横綱大関と対戦しているとも言っている。当然議論になるのは、横綱大関と対戦しており対戦相手は関脇小結と変わらない前頭上位の成績をどう扱うかということであり、それを関脇小結と同様に扱うと言っているし、しかしながら「三役三場所」という基準があるとも言っている。

 

〔読売新聞 1977年1月24日 朝刊 17ページ〕

魁傑11勝、「大関」確定

(タイトル以外略)

 

魁傑から魁傑ということで、今回はこれでおしまい。