baduyoの日記

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2020-04-01から1ヶ月間の記事一覧

3場所33勝基準の形成過程

昭和時代の3場所33勝基準について振り返ってきたが、これをまとめてみたい。 1.昭和41~44年のある時期、大関昇進を3場所の成績で判断するという取り決めがなされた。 2.44夏、3場所の成績により判断された結果、清國が昇進した。 3.47夏、3…

33勝基準 平成における33勝見送り例

それ以降の記事も読んでいるが、私の記憶では、それ以降の昇進において、32勝以下が基準として提示されたことはなかったことから、これ以上の話はないものと見て、この辺りにしておきたい。 ただ、33勝以上の見送り例が散見されたことから、これらの例につ…

33勝基準成立後の昇進例 大乃国―旭富士

北天佑の昇進から3年後、大乃国の昇進問題が浮上した。 〔1984年5月3日 朝刊16ページ〕 大乃国大関へ13勝目指す! (前略)大関昇進については、横綱と違って明確な基準はないが、別表のように三役を連続三場所務めて32、33勝というのが一つ…

33勝基準成立後の昇進例 増位山―北天佑

魁傑若三杉の同時昇進から次の大関が誕生するまで、三年を要することとなった。 増位山は、またも一大関という状況で昇進した。 〔読売新聞 1980年1月20日 朝刊17ページ〕 増位12勝、大関「当確」 関脇増位山の大関問題は、十四日目、増位山が荒…

33勝基準成立後の昇進例 魁傑―魁傑

魁傑で一度区切った理由は、1大関だったという事情があるからである。 といいつつなかなか面白い記事があった。 〔読売新聞 1975年1月19日 朝刊 10ページ〕 魁傑に”遺恨”はらす (前略)大偶然とはいえ、北の湖はいやな相手といやな日に対戦したわ…

33勝基準成立後の昇進例 貴輪―北の湖

今まで見てきたのは、まずはじめに3場所の成績で判断するということになり、その3年後に、33勝をハードルとして課された力士が登場した、ということだった。 さて、先の輪島と大麒麟の大関とりについて示した記事には、「あの表」が載っている。 (読売…

33勝基準の産声

朧げな記憶では、3場所の成績が大関昇進の判断として使用されてから33勝の成立まではそこまで時間差はない。その誕生まで見ていきたい。 清國の次は前乃山である。 前の山の直近三場所は、9-12-13の34勝だった。 〔読売新聞 1970年7月22…

33勝基準前史-3場所基準の誕生

豊山以降解決の昇進は、以下の通りである。しらみ潰しでみていきたい。ただし、私の手持ち情報は読売新聞のみである。 まず、北の富士の昇進である。 〔1966年7月20日〕 北の富士、大関に-安定した成績認め 北の富士は名古屋場所の成績は十勝五敗だ…

33勝基準前史―3場所基準以前

33勝基準以前がどうだったか、という状況を如実に語っている、と私が思っている見送り例がある。豊山である。 ある日の読売新聞に、以下のようなタイトルの記事が載った。 「「豊山」の大関見送り」 豊山の昇進前後の成績はこうである。 さて、いつの場所だ…