baduyoの日記

http://sites.google.com/view/sumoso

3場所33勝基準の形成過程

昭和時代の3場所33勝基準について振り返ってきたが、これをまとめてみたい。

1.昭和41~44年のある時期、大関昇進を3場所の成績で判断するという取り決めがなされた。

2.44夏、3場所の成績により判断された結果、清國が昇進した。

3.47夏、3場所の勝利数が最大でも33勝に満たなくなった長谷川が見送り確定となった。

4.56秋、場所前の時点において「3場所33勝前後」という記述が読売誌上に登場。

5.62夏、「31、32勝」の記述が登場した最終地点

6.22初、把瑠都33勝で見送り

 

 まず1の取り決めがあり、その具体例として2があり、3場所の成績として33勝が明白に要求されていた初めての例は長谷川であるが、これは当場所の審判部の合議も踏まえていた可能性があり、場所前の時点で「3場所33勝」という記述が見えたのは56年秋である。しかしそれ以前も以後も31勝だったり32勝だったりしたが、それらの記述も5を最後に見られなくなったことにより、消去法として33勝基準が残った。

 これらは結局、基準≒前例という発想だったと見ることができる。だから、大ノ国の前例が生じた直後の保志は31、32勝と言われていたし、保志の32勝見送り例が生じた後は31、32勝とは言われなくなったわけである。

 このような前例的発想からは、33勝の見送り例が生じたら「34勝基準」が提唱されても良いようにも思われるが、6の後も「34勝基準」というものが提唱されることはなくなった。これは、33勝基準が前例から分離したことの表れと見ることができる。

6については詳しく突っ込んでないので先に説明する。

5において、31、32勝が消滅したことにより、「33勝基準」が

33勝基準 平成における33勝見送り例

それ以降の記事も読んでいるが、私の記憶では、それ以降の昇進において、32勝以下が基準として提示されたことはなかったことから、これ以上の話はないものと見て、この辺りにしておきたい。

 

ただ、33勝以上の見送り例が散見されたことから、これらの例については見ておくことにする。

 

1.琴光喜

wikipediaの記事がよくまとまっている。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B4%E5%85%89%E5%96%9C%E5%95%93%E5%8F%B8 

2001年9月場所は前頭2枚目の地位で13勝2敗の好成績をあげ、幕内在位7場所目という史上3位のスピードで自身初の幕内最高優勝(平幕優勝)を果たした(優勝パレードはアメリカ同時多発テロの影響で自粛)[1]。この場所を含め、以後連続3場所の通算成績は34勝11敗(9月場所は13勝2敗、11月場所は9勝6敗、翌1月場所は12勝3敗)を挙げ、翌2002年1月場所後に大関昇進なるかが注目された。しかし当時大関が4人いたことや、3場所前が平幕だったこと、および2場所前が9勝6敗であったこと(平成以降に大関昇進した力士で、豪栄道の二人を除き全て2場所前は10勝以上)、また14日目に当時平幕の武雄山に敗れたその印象が悪過ぎるなどの原因により、相撲内容を問われて不運にも昇進は見送られた[2]

 

という次第だった。私の感覚でも、前場所10勝か当場所13勝なら昇進してた感があり、非常に難しい判断だったと思う。

 

次に、雅山をみてみたい。これもウィキペディアを引用はする。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%85%E5%B1%B1%E5%93%B2%E5%A3%AB

昇進基準と番付[編集]

大関復帰を賭けた2006年(平成18年)7月場所は序盤こそ緊張感から苦戦したが、終盤の5連勝によって10勝5敗で終えた。二桁勝利で終えたことにより、大関昇進時と同様に「三役の地位で直近3場所の合計33勝以上」となり、昇進を諮る審判部の判断が注目されたが、不運にも再昇進は見送られた。その理由として、直前場所の成績が10勝5敗での昇進は1960年代以来ほとんど例が無かったこと[注釈 2]や、10日目を終えた段階で5勝5敗と優勝争いに全く加われなかったこと、仮に雅山が再昇進した場合に前例の無い「1場所6大関」という極めてバランスの悪い番付構成になる[注釈 3]ことも不利に働いてしまった[7][出典無効][信頼性要検証][注釈 4]

 

言わんとすることは同感だが、これは出典無効、信頼性要検証をつけられても仕方がない。ウィキペディアというのは信頼性のあるソースに基づく記述であることが必要で、私のやっているような独自研究ウィキペディアで書くべき内容ではない。先の琴光喜の記事はよいのだが、大相撲の記事においては他の項でも独自研究と思しき記述が散見され、内容が不正確である記事も珍しくない。

 私の記憶では、北の湖理事長の発言は「昇進場所の10勝は弱い」というものだった。が10勝を前例に乏しいというのはさすがにマニアの推測が過ぎると思う。優勝争いについては、そのような要素もあると思うが、決定的なものだったとは思われない。関脇という地位である以上、序盤に上位陣と当たり、その後下位と当たるのだから、序盤に負けが込むのはやむをえない。6大関については、私も見送られた真の理由であると思うのだが、「『1横綱大関』という極めてバランスの悪い番付構成」と書かれてしまうと、その意図が無いにしても、4横綱大関だったらよかったのか、というように読めてしまう。端的に6大関を問題にする記述が好ましいが、ウィキペディアの記事として、それ以前に6大関を問題視する関係者のソースを明示すべきだし、それが無ければ独自研究なのだから書くべきではない。

 

次に、把瑠都の見送り。

 もはやウィキペディアにも書いておらず、記憶のみなのだが、場所中高砂審判部長が、「13勝で計34勝なら、いいんじゃない。」と言及していた。

 ここで鍵なのは2点。特に意味もなく34勝になっているということと、場所前に三役で21勝であるにもかかわらず、大関取りという話が出ていない点。

 4大関、昇進したら5大関となる。厳しくする理由は立つかもしれないが、5大関でも基準を厳しくしないことはいくらでもあった。

 

最後に、貴景勝の見送り。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E6%99%AF%E5%8B%9D%E5%85%89%E4%BF%A1

2019年1月場所は新関脇として臨み、直近2場所が三役(小結)だったため、成績次第では「三役に3場所連続で在位して延べ33勝」の目安をクリアでき、大関昇進の可能性があった。同場所は4日目に横綱稀勢の里が引退したり休場者が続出し、中日の「平成最後の天覧相撲」も盛り上がりに欠ける相撲が目立ったが、貴景勝は阿武咲との対戦を押し出しで制し、存在感を見せつけた[52]。10日目に高安に敗れた時点で7勝3敗となり、同日時点で10戦全勝だった白鵬と3差で優勝争いからは遠ざかった。しかし白鵬が11日目より3連敗し14日目より休場、一方で自身が白鵬戦勝利も含め連勝を続けたことで、14日目を終えた時点で2敗の玉鷲を3敗で追う形となり、他力ながら連覇の可能性が生じた。もし千秋楽の本割で玉鷲が敗れ自身が勝ち、続く優勝決定戦で自身が玉鷲に勝てば、大相撲の優勝制度導入以降初の関脇以下での連覇を達成するところだったが、玉鷲の勝利によりその可能性は消滅、直後の大関豪栄道戦では押し出しで完敗し最終成績は11勝4敗となった。勝った11番中9番が押し出しと押しに徹した場所であり、押し相撲を評価されて技能賞を初受賞[53]。直近3場所で三役に在位した上で合計33勝を挙げたが、2018年11月場所に上位陣との対戦が少なかったこと、時々見せる引き技など相撲内容が良くなかったこと、千秋楽で大関豪栄道に完敗したことを理由に大関昇進は見送りとなった[54]阿武松審判部長は「もう1場所見せていただきたいと思います」と審判部としての見解を示し、さらに2018年9月場所が9勝止まりであったことにも触れた[55]

 

というわけで、平成10年代以降33勝の見送り例が散見されることとなった。

33勝基準成立後の昇進例 大乃国―旭富士

北天佑の昇進から3年後、大乃国の昇進問題が浮上した。

〔1984年5月3日 朝刊16ページ〕

大乃国大関へ13勝目指す!

(前略)大関昇進については、横綱と違って明確な基準はないが、別表のように三役を連続三場所務めて32、33勝というのが一つの目安。魁傑、増位山、琴風の時は大関が一人しかおらず、”甘い昇進”となっているが、現在は四大関。すっきり昇進するためには十三勝したいところだ。

  高砂審判部長が言及した三場所三役在位条件が取り込まれているが、最初からそうだったのだろうか?初期を見る限りそうは見えないのだが。

 大乃国はここまで9-10の19勝、13勝で32勝計算となる。

 四大関に言及しているが、32勝が要求されているということは、5大関目でも甘い基準にはならないというにとどまり、5大関目だから厳しい昇進になるとはいっていないのだろう。

 

次は北尾。

〔1985年5月11日 朝刊16ページ〕

大関争い激烈 3関脇

(前略)大関昇進の目安は、三役連続三場所で通算32、33勝といったところだ。北尾は目下三役二場所で20勝。(後略)

 昇進基準について書いている話は前の記事と変わらない。

 

〔1985年7月2日 朝刊18ページ〕

北天佑、2度目の賜杯 大国、大関”当確”の12勝

(前略)関脇大乃国小錦を寄り切って12勝をあげ、場所後の大関昇進を決定的とした。(中略)大関昇進のかかった大一番をものにした大乃国だが、あまり実感がないよう。(後略)

 今場所まで大乃国は9勝―10勝。今までの記事からすると、一般的な基準として文句無しということではなく、場所中における審判部の調整で、12勝で良いということになったのではなかろうか。

 

次は北尾。

〔1985年11月24日 朝刊16ページ〕

千代「九州V5」へ王手 北尾1差、大関は”当確”

東関脇北尾(二二)(立浪部屋)は十四日目、保志を下して大関昇進を決定的にした。北尾は今場所千秋楽を待たず12勝を挙げ、最近三場所でも35勝と過去の昇進例と比べても高水準の勝率。ことし夏場所の途中休場(左足指ねん挫)で、翌名古屋場所は東前頭筆頭だったとはいえ、ことしは六場所のうち五場所、三役をつとめ、夏場所(6勝6敗3休)を除いていずれも二けた白星。その間の横綱大関との対戦も17勝12敗の星を残している(後略)。

 

 記事の通り、2場所前は平幕であり、「三役3場所」には反する。35勝まで当確がでなかったのは、そのような事情が関係しているのではなかろうか。六場所のうち五場所三役ということが強調されているのも、2場所前平幕の事情を補完するためのように思われる。

 

 86年3月に旭富士小錦の記事があるが、昇進基準については語っていないのでパス。ただし、五大関なので昇進への道は厳しいとの記述はある。

 次は翌場所の保志。

〔1986年5月3日 朝刊16ページ〕

保志 大関へ気合

(前略)大関昇進につちえは、横綱と違って明確な基準はなく、3場所連続三役で通算31、32勝というのが一つの目安になっている。初場所8勝、春場所13勝の保志にとって、大関当確のためには11勝したいところだ。(後略)

 さしたる理由もなく1勝下がった。31勝で昇進した大乃国の例をふまえたからだろう。

 果たして保志は11勝を挙げ、大関に昇進し…なかった。32勝で見送りを食らったのである。

 同じ場所の小錦

〔1986年5月7日 朝刊17ページ〕

小錦充実 11勝”当確”

(前略)大関当確ラインはこれまでの成績から11勝といったところだが、(後略)

 小錦はここまで10勝-12勝。3場所33勝が当確ラインとなる。なぜ保志より1勝高いのかは分からない。関脇一場所か、保志が優勝経験あることとの均衡か、あるいは別の動機か。

 

 さて保志の見送り記事である。

〔1986年5月26日 朝刊18ページ〕

保志「大関」は見送り

 春場所13勝2敗で初優勝した保志(九重部屋)は、今場所大関昇進がかかっていたが、11勝をあげたものの、五大関のうち不振の朝潮若嶋津を倒したにとどまり、大関昇進は来場所に見送りとなった。

 鏡山審判部長(元横綱柏戸)は「保志は先場所優勝、今場所も11勝をあげ、着実に力をつけてきたが、来場所もう一場所見てみたい。大乃国、北尾、北天佑大関のうち二人を倒し、満場一致で昇進した方が本人のためにもいいだろう」と話していた。

  色々書いてはいるが、最大の理由が五大関にあるのは否定し難いだろう。表に出ていることだけですべては分からない。

 

 翌場所、保志は無事大関に昇進した。

〔1986年7月18日 朝刊16ページ〕

保志は10勝、大関王手

(前略)保志は栃司に快勝して10勝、三場所連続の二ケタの勝ち星を挙げ、大関昇進をほぼ確実にした。(後略)

 

 大関昇進ほぼ確実の二ケタ白星に、保志は「一つでも星を落とすと、後になって苦しくなると、きょうも硬くなった。きのうの勝ち(北尾戦)が大きい」とうれしさがこみ上げてくるよう。(後略)

  10勝で「ほぼ確実」とのこと。これで34勝となるが、直近10勝。34勝よりも直近10勝が最低条件であり、これはクリアしているが、直近10勝は弱く見られるおそれがあり、できれば11勝欲しいということだろうか。

 

 色々あったが、小錦も昇進した。

〔1987年5月25日 朝刊23ページ〕

小錦 外人初の大関

 初の外人大関誕生へ―大相撲五月場所千秋楽で二十四日、板井に完勝、大関昇進をほぼ確定させたサリーこと関脇小錦(二三)(本名サレバ・アティサノエ、米国籍ハワイ出身)は、支度部屋に戻るなり、トレードマークの大きな目を涙でぬらした。(後略)

 

 千秋楽で33勝計算。しかし昇進場所開催前に全く記事が無いというのも異例である。北勝海の昇進が無ければ五大関で六人目となるという事情が影響したか、それ以外の動機があるか。

 

次は旭富士

〔1987年9月10日 朝刊16ページ〕

さあ大関取り 旭富士燃える

(前略)関脇は、四場所連続、七度目で、成績もここ三場所10、10、11と安定し、今場所12勝以上すれば、大関の座は間違いのないところだ。(後略)

 33勝計算となる。保志見送りまで32勝が基準に入っていたが、それが無くなったのはどういう理由か。4大関がいて5大関目となるかもしれないからか、はたまた最近の大関が33勝以上で昇進しているからということか。

 果たして旭富士は12勝を挙げ大関へ昇進した。

 

 以上で昭和の昇進はおしまい。

33勝基準成立後の昇進例 増位山―北天佑

魁傑若三杉の同時昇進から次の大関が誕生するまで、三年を要することとなった。

増位山は、またも一大関という状況で昇進した。

〔読売新聞 1980年1月20日 朝刊17ページ〕

増位12勝、大関「当確」

 関脇増位山の大関問題は、十四日目、増位山が荒勢に勝って、十二勝をあげたため、初場所後の昇進がほぼ確実となった。

 しかし、高砂審判部長は、十四日目の十九日、「今のところ結論は言えない。千秋楽の取組が終わった打ち出し後、見解を出すから控えさせてほしい」と語った。(中略)増位山は、昨年秋場所小結で八勝、九州場所関脇で十一勝、今場所は十二勝目で一応当確ラインとみられる計三十一勝となっている。これまでの大関昇進のケースからみるとややもの足りないが、現在大関貴ノ花が一人のためやや甘くなっており、すんなり決まるものとみられている。(後略)

 というわけで、三十一勝、14日目で新聞では確定が打たれた。審判部はそうは明言しなかったが、翌日晴れて昇進確定したようだ。

 

翌場所も大関取りの記事がある。栃赤城である。

 

〔読売新聞 1980年3月7日 朝刊17ページ〕

栃赤城大関に照準 上位陣に不気味な琴風

(前略)昨年九州場所は前頭筆頭で十勝五敗。初場所は関脇で十一勝四敗。だからはr場所も十勝以上すれば、大関への道は開けよう。(後略)

 またも31勝のようである。

 

次は千代の富士である。

〔読売新聞 1981年1月23日 朝刊17ページ〕

モロ差しの若花に圧勝 増位山はカド番脱出

 (前略)初日から十二連勝と、大関昇進を決定的にした。(後略)

 

賜杯も射程内に 注目の北湖戦

「いっちゃったよ(十二番)」―横綱若乃花を見事、倒して、”大関当確”の十二勝目をあげた千代の富士は(後略)

 10勝―11勝―12勝だと33勝となる。結局35勝まで上積みして昇進となった。

 

次は隆の里である。

〔読売新聞 1981年5月8日 朝刊16ページ〕

(前略)大関昇進を確実にするには13勝はしたい(後略)

 9勝―10勝なので、3場所32勝計算となる。

しかし結果につなげることはできなかった。

次は琴風、朝汐である。

〔読売新聞 1981年9月11日 朝刊16ページ〕

(前略)さて、大関昇進の条件だが、ここ二場所三役で九、十勝の琴風は十二勝、同じく九、十一勝の朝潮は十一勝したいところだ。大関については明確な昇進基準はないが、直前三場所の成績が三役で三十三勝前後というのが一つの目安になっている。しかし、今場所は七十六年ぶりに大関空位となっており、これまでの一人大関の時の例から見ても、昇進基準が甘くなることは十分考えられ、それだけ昇進のチャンスが大きいと言える。(後略)

 

  おそらく、個人の力士ではなく、最近の例からして一般的に三十三勝という数字を持ち出したのはこの記事が初めてではなかろうか。

 それと同時に、一大関だから31勝が琴風朝汐の基準となるだろう、とも言っている。

 

その場所6日目にはこのような記事が出ている。

〔読売新聞 1981年9月11日 朝刊16ページ〕

朝汐、大関とり絶望の4敗

(タイトル以外略)

 

何か言ってることが違う。

 

〔読売新聞 1981年9月25日 朝刊16ページ〕

琴風、大関”当確”

(前略)この日の十一勝目で、夏場所(西関脇)の九勝、名古屋場所(東関脇)の十勝と合わせ、三役、それも関脇で、三場所通算三十勝となった。今場所は七十六年ぶりの大関不在という異常事態で、昇進基準がやや甘くなるものとみられ、この日、横綱を倒したことから、大関昇進は確実になった。(後略)

 

というわけで、三十勝で当確がでた。横綱戦勝利を理由には挙げられている。

 

〔読売新聞 1982年1月7日 朝刊17ページ〕

 返り関脇の朝汐は、九州場所の優勝決定戦で千代の富士に逆転負けして大魚を逃したが、今場所、優勝もしくは十三勝以上すれば大関昇進の道が開けよう。(後略)

  7勝―12勝、1大関。魁傑と状況は類似している。32勝(又は昇進場所優勝)が要求されていることになる。

ちなみにこの記事では隆の里がメインに取り上げられているが、昇進基準の話は出なかったため割愛した。

 その隆の里の記事である。

 

〔読売新聞 1982年1月22日 朝刊17ページ〕

(前略)今場所横綱大関から一勝もできず、残り三日間勝って十一勝としても、昇進が微妙になるところだったのだ。(後略)

 

 この場所まで隆の里は10勝-11勝。32勝だと微妙だったということになる。この後隆の里は全勝し12勝にのせ、晴れて大関に昇進した。

 「優勝」とか「横綱大関」戦勝利とか、色々と注文を付けるようになって、現代の昇進基準のようになってきた印象である。

 

〔読売新聞 1982年7月10日 朝刊16ページ〕

遠のく大関-出羽、朝汐3敗

大関に赤信号-今場所の商店の一つでもあった出羽の花と朝汐の大関争いは、六日目が終わってともに3敗を喫し、早くも絶望的となった(後略)

 朝汐は8勝―13勝、出羽の花は9勝―11勝。それぞれ34勝、33勝が要求されているとも読めるが、序盤での大敗が印象が悪いということなのだろうか。

 

朝汐が足踏みしている間に、若嶋津があっさりと昇進。

 

〔読売新聞 1982年11月27日 朝刊18ページ〕

 若嶋津大関当確の11勝

(前略)最近三場所トータルの白星はこれで「33」。過去の昇進例と比べて見劣りしない。(後略)

 そして朝汐が念願の昇進を果たす

〔読売新聞 1983年3月25日 朝刊17ページ〕

朝潮 会心の11勝

 朝潮は、押し出しで闘龍をくだし11勝をあげ、大関昇進は確実となった。(後略)

 9勝―14勝なので、34勝、ただし2場所前は前頭筆頭。

 

次に昇進したのは北天佑

〔読売新聞 1983年5月29日 朝刊16ページ〕

北天佑 大関つかんだ

(前略)大関は間違いない。ここ三場所の勝ち星はすでに三十四勝。最近では千代の富士朝潮の三十五勝に次ぐ成績を、あと四番も残した段階であげている。鏡山審判部長(元柏戸)も「もう文句なし。自信を以て相撲をとってる。久しぶりに強くて生きのいい大関が出てきそうだ。この分なら優勝も行くかもしれない」(後略)

11勝―12勝の34勝で当確。

 

大乃国までは若干の間隔があるので、今回はここまで。

33勝基準成立後の昇進例 魁傑―魁傑

魁傑で一度区切った理由は、1大関だったという事情があるからである。

 

といいつつなかなか面白い記事があった。

〔読売新聞 1975年1月19日 朝刊 10ページ〕

魁傑に”遺恨”はらす

(前略)大偶然とはいえ、北の湖はいやな相手といやな日に対戦したわけだが、この日は横綱相撲で白星を重ね、7連勝で単独トップに立ち、大関をねらう魁傑の夢を完全に砕いてしまった。(後略)

場所前から大関取り扱いであったこと、この時点4勝3敗の魁傑が「大関…の夢を完全に砕いてしまった」扱いになっていたらしい。

 

しかし新大関を作りたいという欲望には抗えなかったらしい。

 

〔読売新聞 1975年1月29日 朝刊 15ページ〕

大関魁傑”は微妙

大相撲初場所で11勝4敗の関脇魁傑(二六)(花籠部屋)の大関昇進問題は、きょう二十九日開かれる春場所(中略)の番付編成会議、理事会で結論が出るが、協会内部に時期尚早論もあり、昇進か見送りかについては微妙な情勢となっている。

 大関昇進の場合、問題となるのは、昇進直前三場所の成績。魁傑は、昨年秋場所7勝8敗、同九州場所12勝3敗で初優勝、ことし初場所11勝4敗で、通算30勝15敗。最近のケースでは、北の富士の28勝17敗に次ぐ低い勝率。そのほか、清国の31勝があるが、大受の34勝を最高に、ほとんどが32勝以上をマークしている。

 通算とともに、三場所前に負け越しているのがマイナス材料だが、翌場所に優勝しているため、帳消しになっているという見方もあり、それに一大関で、北の富士が昇進した四十一年名古屋場所と同じ状況にあるというのが、昇進賛成の声。

 これに対し、三場所前の負け越し、初場所が12勝ならともかく、11勝ではというのが見送り論の根拠。

 「初場所が12勝ならともかく、11勝では」という言は、その後自分が審判部長として見送った琴光喜の事例をほうふつとさせ、運命を感じる。

 

 昇進後の記事でも、相当もめた様子が伝わる。

〔読売新聞 1975年1月30日 朝刊 15ページ〕

もめた魁傑大関昇進 ”特例”なし崩しの恐れ

(前略)問題となった昇進直前三場所の成績は、7勝8敗、12勝3敗、11勝4敗で、通算30勝15敗。最近では、北の富士の28勝17敗に次ぐ低い成績で、しかも三場所前に負け越している。勝率もさることながら、この負け越しが大きなマイナス材料で、審議が長引く原因となったようだ。(中略)最終的には、負け越しではあるが、翌場所は優勝決定戦で北の湖を破って初優勝、初場所11勝で準優勝-この二場所の成績、相撲内容がいいということで昇進に落ち着いた。

 ただ、これで問題になるのは、大関昇進の基準。直前三場所が対象となっているが、これを魁傑の場合にあてはめると、負け越した場所が含まれており、昇進の資格はないといわれてもやむを得ないだろう。それを昇進に踏み切ったのは、直前に場所を高く評価してだった。審判部は「今回は特例で、建前は依然として三場所で、これは今後も崩さない」といっているが、慣例が破られたことは事実で、なし崩しになる恐れは十分ある。そして、それが”弱い大関の量産”につながりかねない。

 まず、今まで3場所の成績で判断するようになったのは見てきた通りだが、2場所前の負け越しが問題だということは、それを単純に足し算するという発想ではないことが分かった。

 それと、「建前は依然として三場所」と審判部が明言しているのは重要である。今まで読売新聞の記事に三場所の成績で見ることになっていると書かれているのは見てきたとおりだが、それが協会側の人間の発言が引用される形で示されているのはこれが初めてである。

 これすらも虚偽であると考えられなくもないが、この発言がなされたこと自体を信用するならば、協会としても三場所の成績で判断するというルールが既にあったものと見られ、翻ってやはり記事に出ていた清國の前のある時点において協会に3場所の成績で大関昇進の判断をしよう、という取り決めがなされたことがうかがわれる。 

 

魁傑の次は三重ノ海である。

〔読売新聞 1975年11月22日 朝刊 17ページ〕

三重海、北湖をつぶす

(前略)三重ノ海北の湖を下手投げで破り”優勝””大関昇進”へ大きく前進した。(中略)北の湖を破り、これで一横綱、二大関を倒した三重ノ海大関当確と初優勝へ大きく前進したとあれば当然だろう。(中略)二十七歳の三重ノ海は、さる四十七年にも大関昇進のチャンスをつかんでいるが、このときは病気(急性肝炎)で逃した。(後略)

 当確とも言ってないので何とも微妙であるが、ここまで8勝―11勝。13日目終了時11勝2敗なので、30勝で当確「へ大きく前進」ということになる。

 そして、四十七年にも大関昇進のチャンスがあったとある。その辺りの成績をみると、四六秋東前5で10勝、九小結で11勝、四七初関脇で8勝となっている。初場所大関取りだったのなら、二場所前の東前頭5枚目在位も大関取りの決定的なマイナス要因ではなかったことになり、また春場所大関取りだとすると、二場所19勝で大関取りとなりえたということになる。

 名門出羽海出身なのが有利に働いたか、というのが偽らざる感想。

 

次は旭國

 

 

〔読売新聞 1976年3月10日 朝刊 19ページ〕

旭國大関”へ淡々と

(前略)”十一勝以上なら大関”という周囲の声にも(中略)「今場所は、なにがなんでもというんじゃない。今場所十番勝てば、来場所十番でも大関になれる」といった調子で、(後略)

 8勝―12勝なので、31勝計算。また、旭國の言では、12勝―10勝-10勝の32勝ということもさることながら、直近10勝でも文句無しという雰囲気のようである。当場所13勝で昇進した。

 

次はなかなか面白い話。魁傑の昇進見送りが話題となっている。

〔読売新聞 1976年11月22日 夕刊 9ページ〕

魁傑3敗、大関は絶望

(タイトル以外略)

 この場所の魁傑は、小結5勝―西前四14勝と来ている。これで13勝取れば再大関もあったということらしい。

 一回目の昇進の時、「特例」とされていた二場所の成績での昇進が、またも実現しそうだったわけである。しかし今回は一大関ではない。とすると、一度陥落しての再大関だから昇進基準は緩くなるという理屈か。なお、今場所魁傑は西関脇十一勝に終わっているが、東関脇若三杉も十一勝だった。同成績の東関脇を飛び越えて西関脇が昇進することがあったかも興味深い。

 

その翌場所は、若三杉と魁傑の両大関取りだった。

〔読売新聞 1977年月1月6日 朝刊 15ページ〕

初場所の話題を追って下 安定魁傑、大関へ突進 若三杉、立ち合いに進境

(前略)若三杉にとっては(中略)大関昇進当確ラインは11勝以上とみられるが、(中略)魁傑は、(中略)今場所についての当確ラインは10勝以上と低く、条件は恵まれている。

  若三杉は11勝―11勝なので33勝。魁傑は14勝―11勝なので35勝。ただし二場所前が前頭4枚目という問題、再大関という問題がある。

 この記事の通りだとすると、若三杉が10勝、魁傑が10勝だった場合、またもや西関脇が同じ成績の東関脇をさておいて大関に昇進する可能性があったことになる。

 

が、実際にはそれ以前の段階で当確が打たれた。

〔読売新聞 1977年1月21日 朝刊 17ページ〕

 若三杉が、(中略)十勝の二ケタ白星をマーク、大関昇進を確実にした。

 32勝で当確となった。

 

逆に魁傑は、事前に言われていた10勝を挙げても微妙な書きっぷりである。

〔読売新聞 1977年1月23日 朝刊 17ページ〕

魁傑 大関の”夢”再び

魁傑が、大関三重ノ海に解消して、待望の二ケタの勝ち星をあげた。しかも、三場所連続、三大関を総ナメしたことになり、大関返り咲きの色を濃くした。(中略)大関の当確ラインは十勝以上と見られており、審判部は「千秋楽が終わるまで何とも言えない」としているものの、ムードは昇進に傾いている。(中略)高砂審判部長も、「基準は三場所とも三役となっている。魁傑は平幕だったが、横綱大関と対戦しているからね」と好意的な見方をしている。(後略)

  当確とはいっていない。高砂審判部長の言は貴重のように思う。三役在位となっていると言っている。しかし、横綱大関と対戦しているとも言っている。当然議論になるのは、横綱大関と対戦しており対戦相手は関脇小結と変わらない前頭上位の成績をどう扱うかということであり、それを関脇小結と同様に扱うと言っているし、しかしながら「三役三場所」という基準があるとも言っている。

 

〔読売新聞 1977年1月24日 朝刊 17ページ〕

魁傑11勝、「大関」確定

(タイトル以外略)

 

魁傑から魁傑ということで、今回はこれでおしまい。

33勝基準成立後の昇進例 貴輪―北の湖

今まで見てきたのは、まずはじめに3場所の成績で判断するということになり、その3年後に、33勝をハードルとして課された力士が登場した、ということだった。

 

さて、先の輪島と大麒麟大関とりについて示した記事には、「あの表」が載っている。

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(読売新聞1972年5月26日 朝刊 10ページ)

昇進基準に興味のある方は見慣れた表ではないだろうか。直近3場所の成績である。読売新聞で探した限りではこれが初めてである。

 

この場所の輪島を語った審判部のコメントが載った記事を見る限り、何というか、学生相撲出身、遊び好きである輪島に対する悪意を隠そうともしない審判部の態度が看取される。

 

〔読売新聞 1972年5月28日 朝刊11ページ〕

輪島、大関はムリ? 審判部長らは消極的

(前略)二子山副部長は「輪島は立ち合いが悪い」といい、高砂部長は「関脇になってからの実績がまだ少ない」として消極的な態度だった。

 

翌場所の輪島はこのようになっている。

〔読売新聞 1972年7月10日 朝刊10ページ〕

輪島、大関絶望の4敗

(タイトル以外略)

 輪島は9勝ー12勝で迎えた名古屋場所だった。4敗=最大32勝だから、これも33勝が要求されていたことになる。

 

この場所、もう一人の力士の大関昇進についての記事がある。もちろん貴ノ花である。

 

〔読売新聞 1972年7月16日 朝刊11ページ〕

抵抗する貴、大関の足がかり

(前略)もし、千秋楽に十二勝目をあげ、来場所また十一勝でもすれば「大関昇進はほとんど間違いないだろう」と元大関豊山時津風親方はいう。(後略)

 

この前場所11勝だったので、34勝が「ほとんど間違いない」ラインということとなる。

ちなみに、貴ノ花はこの場所の昇進も検討されたようである。

 

〔読売新聞 1972年7月18日 夕刊8ページ〕

 貴ノ花大関は見送り 番付編成会議

(タイトル以外略)

 貴ノ花はこの場所まで10勝―11勝―12勝の33勝。ただ、2場所前が前頭筆頭、前場所が小結だった。

 

残念ながら貴輪の昇進場所の記事はなし。

 

次は大受

〔読売新聞 1972年7月12日 朝刊18ページ〕

大関の声に大受「無心」

 (前略)しかし大関昇進の条件は十二勝とも十三勝ともいわれている。(後略)

 

大受の前2場所は10勝ー11勝なので、33、34勝辺りとなる。

 

〔読売新聞 1972年7月15日 朝刊18ページ〕

大受12勝、大関”当確”

(タイトル以外略)

 結局12勝、3場所33勝で確定となった。

 

次は北の湖

〔読売新聞 1974年1月20日 朝刊15ページ〕

北の湖大関手中”の13勝

(タイトル以外略)

 8勝―10勝で、この場所14日目、13勝1敗の時点で昇進確実となった。この時点では1差で輪島が追っており、最悪優勝同点の可能性があったが、それでも昇進させるということだった。3場所31勝の計算となる。

次が魁傑だが、これはかなりの特例ということで、ここでいったん記事を終えたい。

33勝基準の産声

朧げな記憶では、3場所の成績が大関昇進の判断として使用されてから33勝の成立まではそこまで時間差はない。その誕生まで見ていきたい。

 

清國の次は前乃山である。

前の山の直近三場所は、9-12-13の34勝だった。

〔読売新聞 1970年7月22日 夕刊 8ページ〕

 【名古屋】相撲協会は二十二日午前九時から名古屋市愛知県対区間で、秋場所番付編成会議を開きと理事会を開き、名古屋場所関脇で十三勝二敗の準優勝だった前乃山(二五)(高砂部屋)の大関昇進を満場一致で決めた。(後略)

これだけでは、34勝上げたら文句なしということしか分からない。

千秋楽時点では、次のような記事が出ていた。

〔読売新聞 1970年7月19日 朝刊10ページ〕

 大麒麟の”大関”ムードが高まってきた。(中略)控えにいるとき目の前で前乃山が勝ったが「いつもとかわらない冷静な気持ちだった」という。夜は「あいかわらずよくねむれる」と、少しもいら立っていない。「今場所は十一勝が目標だった」そうで、あとはもうけものという気持ちなのだろう。さきを越されかかっている前乃山の”大関”にもあわてず「お先へどうぞ」といわんばかりだ。(後略)

  前の山は千秋楽勝って34勝だから、この記事の大麒麟の目の前で朝乃山が勝って大関当確のように書いているのは33勝時点の話。

もっとも、これでもあまり決定的なものではないか。

 

 前の山に次いで大関になったのは、その大麒麟だった。

 ちなみに、前の山が昇進した場所も昇進問題は議題に上ったようである。

〔読売新聞 1970年7月23日 朝刊 10ページ〕

 (前略)二十二日の理事会では、大麒麟大関問題も話題にのぼったが「十二勝では先場所の前乃山と同じ成績」という春日野、宮城野両審判部長の説明で、議題としては取り上げられなかった。(中略)両審判部長も「あと一勝していれば……」という意見だったそうだ。こうした情勢からみて来場所の大麒麟は今場所の前乃山同様”十一勝”が大関昇進ライン。十二勝以上すれば、それこそ”待ったなし”であろう。

  図らずも前の山のラインが出てきてしまった。今場所十一勝、計32勝がラインだったようである。

 そして、来場所十一勝で大関取りとのことで、この大麒麟も32勝が場所前に設定されていた昇進ラインだったのだろう。果たして翌場所12勝を挙げ、33勝で昇進することになる。

 

〔読売新聞1970年9月25日 朝刊10ページ〕

大麒麟大関手中”の11勝

(タイトル以外略)

 

次は長谷川を取り上げたい。

〔読売新聞1972年3月30日 朝刊10ページ〕

長谷川、大関昇進見送り

(前略)春場所優勝した関脇長谷川の大関昇進については話題に上っただけで見送られた。

 そっけないが、こんな無味乾燥な記事をどうして掲載したのかというと、翌夏場所のこの記事のせいである。

〔読売新聞1972年5月26日 朝刊10ページ〕

(前略)春場所あと一勝でよじのぼれなかった長谷川、今場所復帰をかけて果たせなかった前の山らをしり目に、輪島がスターのイスにすわるには、まず優勝、それも十三勝二敗の星が要求されるだろう。輪島はきょうから残り三日間を全勝しなければならない。

というわけで、計算ができるようになった。長谷川は春場所まで8勝―10勝-12勝の30勝だったから、もう1勝、31勝で上がれていた計算になる。

 

ちなみに、この場所の主役、輪島については、10勝-9勝で臨んだ夏場所に「13勝」が要求されるとのことで、これも32勝計算となる。

 

この数日前、惜しくも春場所大関に届かなかった長谷川は翌夏場所大関取りだったわけだが、それが絶望的となった、という記事がある。

 〔読売新聞1972年5月25日 朝刊10ページ〕

(前略)長谷川は今場所11勝が大関昇進、また前の山は10勝が大関復帰の条件だったが、ともにこの日敗れて、望みを断った。(後略)

 長谷川は春場所まで10勝-12勝。この場所11勝が要求されていたということは、3場所33勝が昇進基準として課されたこととなる。

 

というわけで、あくまで読売新聞の記事を追ったのみではあるが、答えは出た。3場所33勝基準を初めて要求された明らかな力士は、47年夏の長谷川である。初めて3場所基準が明らかになった清國の昇進から、3年のことだった。