baduyoの日記

http://sites.google.com/view/sumoso

33勝基準成立後の昇進例 大乃国―旭富士

北天佑の昇進から3年後、大乃国の昇進問題が浮上した。

〔1984年5月3日 朝刊16ページ〕

大乃国大関へ13勝目指す!

(前略)大関昇進については、横綱と違って明確な基準はないが、別表のように三役を連続三場所務めて32、33勝というのが一つの目安。魁傑、増位山、琴風の時は大関が一人しかおらず、”甘い昇進”となっているが、現在は四大関。すっきり昇進するためには十三勝したいところだ。

  高砂審判部長が言及した三場所三役在位条件が取り込まれているが、最初からそうだったのだろうか?初期を見る限りそうは見えないのだが。

 大乃国はここまで9-10の19勝、13勝で32勝計算となる。

 四大関に言及しているが、32勝が要求されているということは、5大関目でも甘い基準にはならないというにとどまり、5大関目だから厳しい昇進になるとはいっていないのだろう。

 

次は北尾。

〔1985年5月11日 朝刊16ページ〕

大関争い激烈 3関脇

(前略)大関昇進の目安は、三役連続三場所で通算32、33勝といったところだ。北尾は目下三役二場所で20勝。(後略)

 昇進基準について書いている話は前の記事と変わらない。

 

〔1985年7月2日 朝刊18ページ〕

北天佑、2度目の賜杯 大国、大関”当確”の12勝

(前略)関脇大乃国小錦を寄り切って12勝をあげ、場所後の大関昇進を決定的とした。(中略)大関昇進のかかった大一番をものにした大乃国だが、あまり実感がないよう。(後略)

 今場所まで大乃国は9勝―10勝。今までの記事からすると、一般的な基準として文句無しということではなく、場所中における審判部の調整で、12勝で良いということになったのではなかろうか。

 

次は北尾。

〔1985年11月24日 朝刊16ページ〕

千代「九州V5」へ王手 北尾1差、大関は”当確”

東関脇北尾(二二)(立浪部屋)は十四日目、保志を下して大関昇進を決定的にした。北尾は今場所千秋楽を待たず12勝を挙げ、最近三場所でも35勝と過去の昇進例と比べても高水準の勝率。ことし夏場所の途中休場(左足指ねん挫)で、翌名古屋場所は東前頭筆頭だったとはいえ、ことしは六場所のうち五場所、三役をつとめ、夏場所(6勝6敗3休)を除いていずれも二けた白星。その間の横綱大関との対戦も17勝12敗の星を残している(後略)。

 

 記事の通り、2場所前は平幕であり、「三役3場所」には反する。35勝まで当確がでなかったのは、そのような事情が関係しているのではなかろうか。六場所のうち五場所三役ということが強調されているのも、2場所前平幕の事情を補完するためのように思われる。

 

 86年3月に旭富士小錦の記事があるが、昇進基準については語っていないのでパス。ただし、五大関なので昇進への道は厳しいとの記述はある。

 次は翌場所の保志。

〔1986年5月3日 朝刊16ページ〕

保志 大関へ気合

(前略)大関昇進につちえは、横綱と違って明確な基準はなく、3場所連続三役で通算31、32勝というのが一つの目安になっている。初場所8勝、春場所13勝の保志にとって、大関当確のためには11勝したいところだ。(後略)

 さしたる理由もなく1勝下がった。31勝で昇進した大乃国の例をふまえたからだろう。

 果たして保志は11勝を挙げ、大関に昇進し…なかった。32勝で見送りを食らったのである。

 同じ場所の小錦

〔1986年5月7日 朝刊17ページ〕

小錦充実 11勝”当確”

(前略)大関当確ラインはこれまでの成績から11勝といったところだが、(後略)

 小錦はここまで10勝-12勝。3場所33勝が当確ラインとなる。なぜ保志より1勝高いのかは分からない。関脇一場所か、保志が優勝経験あることとの均衡か、あるいは別の動機か。

 

 さて保志の見送り記事である。

〔1986年5月26日 朝刊18ページ〕

保志「大関」は見送り

 春場所13勝2敗で初優勝した保志(九重部屋)は、今場所大関昇進がかかっていたが、11勝をあげたものの、五大関のうち不振の朝潮若嶋津を倒したにとどまり、大関昇進は来場所に見送りとなった。

 鏡山審判部長(元横綱柏戸)は「保志は先場所優勝、今場所も11勝をあげ、着実に力をつけてきたが、来場所もう一場所見てみたい。大乃国、北尾、北天佑大関のうち二人を倒し、満場一致で昇進した方が本人のためにもいいだろう」と話していた。

  色々書いてはいるが、最大の理由が五大関にあるのは否定し難いだろう。表に出ていることだけですべては分からない。

 

 翌場所、保志は無事大関に昇進した。

〔1986年7月18日 朝刊16ページ〕

保志は10勝、大関王手

(前略)保志は栃司に快勝して10勝、三場所連続の二ケタの勝ち星を挙げ、大関昇進をほぼ確実にした。(後略)

 

 大関昇進ほぼ確実の二ケタ白星に、保志は「一つでも星を落とすと、後になって苦しくなると、きょうも硬くなった。きのうの勝ち(北尾戦)が大きい」とうれしさがこみ上げてくるよう。(後略)

  10勝で「ほぼ確実」とのこと。これで34勝となるが、直近10勝。34勝よりも直近10勝が最低条件であり、これはクリアしているが、直近10勝は弱く見られるおそれがあり、できれば11勝欲しいということだろうか。

 

 色々あったが、小錦も昇進した。

〔1987年5月25日 朝刊23ページ〕

小錦 外人初の大関

 初の外人大関誕生へ―大相撲五月場所千秋楽で二十四日、板井に完勝、大関昇進をほぼ確定させたサリーこと関脇小錦(二三)(本名サレバ・アティサノエ、米国籍ハワイ出身)は、支度部屋に戻るなり、トレードマークの大きな目を涙でぬらした。(後略)

 

 千秋楽で33勝計算。しかし昇進場所開催前に全く記事が無いというのも異例である。北勝海の昇進が無ければ五大関で六人目となるという事情が影響したか、それ以外の動機があるか。

 

次は旭富士

〔1987年9月10日 朝刊16ページ〕

さあ大関取り 旭富士燃える

(前略)関脇は、四場所連続、七度目で、成績もここ三場所10、10、11と安定し、今場所12勝以上すれば、大関の座は間違いのないところだ。(後略)

 33勝計算となる。保志見送りまで32勝が基準に入っていたが、それが無くなったのはどういう理由か。4大関がいて5大関目となるかもしれないからか、はたまた最近の大関が33勝以上で昇進しているからということか。

 果たして旭富士は12勝を挙げ大関へ昇進した。

 

 以上で昭和の昇進はおしまい。