33勝基準成立後の昇進例 貴輪―北の湖
今まで見てきたのは、まずはじめに3場所の成績で判断するということになり、その3年後に、33勝をハードルとして課された力士が登場した、ということだった。
さて、先の輪島と大麒麟の大関とりについて示した記事には、「あの表」が載っている。
(読売新聞1972年5月26日 朝刊 10ページ)
昇進基準に興味のある方は見慣れた表ではないだろうか。直近3場所の成績である。読売新聞で探した限りではこれが初めてである。
この場所の輪島を語った審判部のコメントが載った記事を見る限り、何というか、学生相撲出身、遊び好きである輪島に対する悪意を隠そうともしない審判部の態度が看取される。
〔読売新聞 1972年5月28日 朝刊11ページ〕
輪島、大関はムリ? 審判部長らは消極的
(前略)二子山副部長は「輪島は立ち合いが悪い」といい、高砂部長は「関脇になってからの実績がまだ少ない」として消極的な態度だった。
翌場所の輪島はこのようになっている。
〔読売新聞 1972年7月10日 朝刊10ページ〕
輪島、大関絶望の4敗
(タイトル以外略)
輪島は9勝ー12勝で迎えた名古屋場所だった。4敗=最大32勝だから、これも33勝が要求されていたことになる。
この場所、もう一人の力士の大関昇進についての記事がある。もちろん貴ノ花である。
〔読売新聞 1972年7月16日 朝刊11ページ〕
抵抗する貴、大関の足がかり
(前略)もし、千秋楽に十二勝目をあげ、来場所また十一勝でもすれば「大関昇進はほとんど間違いないだろう」と元大関豊山の時津風親方はいう。(後略)
この前場所11勝だったので、34勝が「ほとんど間違いない」ラインということとなる。
ちなみに、貴ノ花はこの場所の昇進も検討されたようである。
〔読売新聞 1972年7月18日 夕刊8ページ〕
貴ノ花の大関は見送り 番付編成会議
(タイトル以外略)
貴ノ花はこの場所まで10勝―11勝―12勝の33勝。ただ、2場所前が前頭筆頭、前場所が小結だった。
残念ながら貴輪の昇進場所の記事はなし。
次は大受。
〔読売新聞 1972年7月12日 朝刊18ページ〕
大関の声に大受「無心」
(前略)しかし大関昇進の条件は十二勝とも十三勝ともいわれている。(後略)
大受の前2場所は10勝ー11勝なので、33、34勝辺りとなる。
〔読売新聞 1972年7月15日 朝刊18ページ〕
大受12勝、大関”当確”
(タイトル以外略)
結局12勝、3場所33勝で確定となった。
次は北の湖
〔読売新聞 1974年1月20日 朝刊15ページ〕
北の湖”大関手中”の13勝
(タイトル以外略)
8勝―10勝で、この場所14日目、13勝1敗の時点で昇進確実となった。この時点では1差で輪島が追っており、最悪優勝同点の可能性があったが、それでも昇進させるということだった。3場所31勝の計算となる。
次が魁傑だが、これはかなりの特例ということで、ここでいったん記事を終えたい。