3場所33勝基準の形成過程
昭和時代の3場所33勝基準について振り返ってきたが、これをまとめてみたい。
1.昭和41~44年のある時期、大関昇進を3場所の成績で判断するという取り決めがなされた。
2.44夏、3場所の成績により判断された結果、清國が昇進した。
3.47夏、3場所の勝利数が最大でも33勝に満たなくなった長谷川が見送り確定となった。
4.56秋、場所前の時点において「3場所33勝前後」という記述が読売誌上に登場。
5.62夏、「31、32勝」の記述が登場した最終地点
6.22初、把瑠都33勝で見送り
まず1の取り決めがあり、その具体例として2があり、3場所の成績として33勝が明白に要求されていた初めての例は長谷川であるが、これは当場所の審判部の合議も踏まえていた可能性があり、場所前の時点で「3場所33勝」という記述が見えたのは56年秋である。しかしそれ以前も以後も31勝だったり32勝だったりしたが、それらの記述も5を最後に見られなくなったことにより、消去法として33勝基準が残った。
これらは結局、基準≒前例という発想だったと見ることができる。だから、大ノ国の前例が生じた直後の保志は31、32勝と言われていたし、保志の32勝見送り例が生じた後は31、32勝とは言われなくなったわけである。
このような前例的発想からは、33勝の見送り例が生じたら「34勝基準」が提唱されても良いようにも思われるが、6の後も「34勝基準」というものが提唱されることはなくなった。これは、33勝基準が前例から分離したことの表れと見ることができる。
6については詳しく突っ込んでないので先に説明する。
5において、31、32勝が消滅したことにより、「33勝基準」が