33勝基準前史―3場所基準以前
33勝基準以前がどうだったか、という状況を如実に語っている、と私が思っている見送り例がある。豊山である。
ある日の読売新聞に、以下のようなタイトルの記事が載った。
豊山の昇進前後の成績はこうである。
さて、いつの場所だと思われるだろうか。
昭和38年初場所?しかしこの場所は昇進している。
そう。
【福岡発】大相撲初場所の番付編成会議は二十八日午前九時から福岡市スポーツ・センターで開かれ、開幕前話題を集めた関脇豊山の大関昇進問題は見送りとなった。(読売新聞1962年11月28日 夕刊 11ページ)
見ての通り、三役一場所で「昇進問題」が発生していたのである。
〔読売新聞 1963年1月25日 朝刊 6ページ〕
東関脇豊山はこの日小城ノ花を破って十一勝目をあげ、場所後の大関昇進がほぼ確実となった。豊山がかりに十三日目以降三連敗し十一勝四敗となっても、前場所同じ東関脇で十二勝三敗の好成績をあげているので、二場所の通算成績二十三勝七敗となり、十一勝四敗で大関になった柏戸、北葉山の二場所通算よりすぐれている。
ただ大関に昇進した、ということを言いたいだけで記事を引用したのではない。「2場所23勝」を根拠として挙げており、「3場所37勝」など影も形もない、ということに注目してほしくて引用した次第である。
この豊山と比較したいのが、魁傑である。
魁傑の一回目の昇進は、7勝―12勝―11勝だった。
〔1975年1月30日〕
もめた魁傑大関昇進”特例”なし崩しの恐れ
(前略)ただ、これで問題になるのは、大関昇進の基準。直前三場所が対象となっているが、これを解決の場合にあてはめると、負け越した場所が含まれており、昇進の資格はないといわれてもやむを得ないだろう。それを昇進に踏み切ったのは、直前二場所を高く評価してだった。審判部は「今回は特例で、建前は依然として三場所で、これは今後も崩さない」といっているが(後略)
二場所の昇進が「特例」だと言っており、「建前は依然として三場所」とのことである。豊山の昇進と魁傑の昇進の間に、何かが起こったことは間違いない。
では、何が起こったのだろう?
…と言ってしまうと、答えを知ってるように聞こえるかもしれない。私が知ってるのは、だいたいどの辺りにこの変化が起きたのか、ということである。
どの辺で変化が起きたのか、時間をさかのぼってみたい。豊山の昇進から魁傑の昇進まで、約12年の中に答えはあるはずだ。