baduyoの日記

http://sites.google.com/view/sumoso

33勝基準前史―3場所基準以前

 

33勝基準以前がどうだったか、という状況を如実に語っている、と私が思っている見送り例がある。豊山である。

ある日の読売新聞に、以下のようなタイトルの記事が載った。

 

「「豊山」の大関見送り」

 

豊山の昇進前後の成績はこうである。

f:id:baduyo:20200406212014p:plain

さて、いつの場所だと思われるだろうか。

 

昭和38年初場所?しかしこの場所は昇進している。

 

そう。

 

【福岡発】大相撲初場所番付編成会議は二十八日午前九時から福岡市スポーツ・センターで開かれ、開幕前話題を集めた関脇豊山大関昇進問題は見送りとなった。(読売新聞1962年11月28日 夕刊 11ページ)

 

昭和37年九州場所豊山大関を見送られた。

見ての通り、三役一場所で「昇進問題」が発生していたのである。

翌場所、豊山は無事に大関に昇進した。

〔読売新聞 1963年1月25日 朝刊 6ページ〕

 東関脇豊山はこの日小城ノ花を破って十一勝目をあげ、場所後の大関昇進がほぼ確実となった。豊山がかりに十三日目以降三連敗し十一勝四敗となっても、前場所同じ東関脇で十二勝三敗の好成績をあげているので、二場所の通算成績二十三勝七敗となり、十一勝四敗で大関になった柏戸、北葉山の二場所通算よりすぐれている。

 ただ大関に昇進した、ということを言いたいだけで記事を引用したのではない。「2場所23勝」を根拠として挙げており、「3場所37勝」など影も形もない、ということに注目してほしくて引用した次第である。

 

この豊山と比較したいのが、魁傑である。

魁傑の一回目の昇進は、7勝―12勝―11勝だった。

〔1975年1月30日〕

もめた魁傑大関昇進”特例”なし崩しの恐れ

 (前略)ただ、これで問題になるのは、大関昇進の基準。直前三場所が対象となっているが、これを解決の場合にあてはめると、負け越した場所が含まれており、昇進の資格はないといわれてもやむを得ないだろう。それを昇進に踏み切ったのは、直前二場所を高く評価してだった。審判部は「今回は特例で、建前は依然として三場所で、これは今後も崩さない」といっているが(後略)

二場所の昇進が「特例」だと言っており、「建前は依然として三場所」とのことである。豊山の昇進と魁傑の昇進の間に、何かが起こったことは間違いない。

では、何が起こったのだろう?

…と言ってしまうと、答えを知ってるように聞こえるかもしれない。私が知ってるのは、だいたいどの辺りにこの変化が起きたのか、ということである。

どの辺で変化が起きたのか、時間をさかのぼってみたい。豊山の昇進から魁傑の昇進まで、約12年の中に答えはあるはずだ。