33勝基準前史-3場所基準の誕生
豊山以降解決の昇進は、以下の通りである。しらみ潰しでみていきたい。ただし、私の手持ち情報は読売新聞のみである。
まず、北の富士の昇進である。
〔1966年7月20日〕
北の富士は名古屋場所の成績は十勝五敗だったが最近連続五場所東関脇を張り、いちおう地力がつき、この間の成績も四十七勝二十八敗(勝率六割二分七厘)と安定していること、夏場所後、北葉山(現枝川親方)が引退して大関がゆたかやまただ一人という変則的な番付のため、協会としては新大関を誕生させる必要に迫られていたなどがおもな理由である。
見ての通り、3場所の成績などは一言も出ていない。
次は玉乃島。
〔読売新聞1966年9月26日 朝刊 11ページ〕
(前略)関脇で十一勝四敗の好成績を残した玉乃島は、まだ関脇連続三場所だが、前場所北の富士が十勝五敗で昇進しているので、二十八日の番付編成会議で大関昇進が決定しよう。(後略)
やはり、3場所の成績とは言っていない。一応30勝は挙げてたわけで、それを言わずに前場所の北の富士との比較を挙げるのは、まだ3場所成績というのが大関昇進において主役に躍り出てはいなかった証左だろう。
次は、琴櫻である。
〔読売新聞1967年9月27日 夕刊 11ページ〕
大相撲秋場所、関脇で11勝4敗の好成績をあげ、殊勲賞を獲得した琴桜の大関昇進が決まった。相撲協会は二十七日午前九時から番付編成会議を開き、満場一致で琴桜を大関に推薦した。直ちに白玉理事、岩友検査役が死者として東京・江東区新大橋の佐渡ヶ嶽部屋に生き、昇進をつげた。琴桜は紋服姿で「つつしんでお受けします」とていねいに頭を下げた。
琴櫻については、成績と紐づけた昇進の話は読売新聞では見つからなかった。
次に、清國。
〔読売新聞1969年5月25日 朝刊9ページ〕
清国の大関問題が持ち上がってきた。清国は十四日目、長谷川を破って十一勝をあげ、これで春場所の旧称、初場所小結での十勝と合わせ、ここ三場所の勝率は6割6分7厘。最近の大関昇進ペースに完全に乗った形である。
大関は横綱と違い、直前三場所の成績が問題とされる。琴桜は小結で十勝、関脇で二場所十一勝し、勝率は7割1分1厘。玉乃島は関脇三場所で十勝、九勝、十一勝。勝率は清国と同じ6割6分7厘だった。北の富士はやはり関脇三場所。しかし成績は八勝と十勝二場所で勝率は6割2分2厘と清国よりも低い。清国は、きょう千秋楽に勝つと、十二勝で6割8分9厘とさらにはね上がる。
大関問題は、場所後の二十七日に協会理事会で討議され、翌二十八日の番付編成会議で正式に決定するが、”清国の大関”について春日野審判部長は「十二勝なら」と賛成の意向を示している。武蔵川理事長は「わたしは審判部ではないからはっきりしたことはいえない」と言明を避けたが「そのときの”ムード”を大事にしたい」と清国の大関問題を話した。清国が十二勝なら大関-そのムードは次第に高まりつつあるようだ。
何かが起きた。琴桜以前、ほとんど話題に出ることのなかった「三場所の成績」が昇進基準として用いられている。のみならず、言い方である。「直前三場所の成績が問題とされる。」と断定している。もちろん、今までも三場所の成績で判断されてきたのであれば何の不思議もないのだが、今まで見てきたように、直前の昇進力士まで、三場所で判断されるということはなかったのに、いきなりこの「三場所の成績」が出現し、しかもこのような断定口調なのだから、この清国の昇進は重視せざるを得ない。
何が起きたのか。このような急な変更は、協会幹部の発言があったとみるのがもっとも自然だろう。かくして、三場所の成績で判断する「3場所基準」が誕生した。
なお、これからもくどく述べていくが、読売新聞の記事を追っかけただけである。昇進基準がよく説明されていない琴桜など、もしかしたら既に3場所基準により判断されていた可能性はある。
33勝基準前史―3場所基準以前
33勝基準以前がどうだったか、という状況を如実に語っている、と私が思っている見送り例がある。豊山である。
ある日の読売新聞に、以下のようなタイトルの記事が載った。
豊山の昇進前後の成績はこうである。
さて、いつの場所だと思われるだろうか。
昭和38年初場所?しかしこの場所は昇進している。
そう。
【福岡発】大相撲初場所の番付編成会議は二十八日午前九時から福岡市スポーツ・センターで開かれ、開幕前話題を集めた関脇豊山の大関昇進問題は見送りとなった。(読売新聞1962年11月28日 夕刊 11ページ)
見ての通り、三役一場所で「昇進問題」が発生していたのである。
〔読売新聞 1963年1月25日 朝刊 6ページ〕
東関脇豊山はこの日小城ノ花を破って十一勝目をあげ、場所後の大関昇進がほぼ確実となった。豊山がかりに十三日目以降三連敗し十一勝四敗となっても、前場所同じ東関脇で十二勝三敗の好成績をあげているので、二場所の通算成績二十三勝七敗となり、十一勝四敗で大関になった柏戸、北葉山の二場所通算よりすぐれている。
ただ大関に昇進した、ということを言いたいだけで記事を引用したのではない。「2場所23勝」を根拠として挙げており、「3場所37勝」など影も形もない、ということに注目してほしくて引用した次第である。
この豊山と比較したいのが、魁傑である。
魁傑の一回目の昇進は、7勝―12勝―11勝だった。
〔1975年1月30日〕
もめた魁傑大関昇進”特例”なし崩しの恐れ
(前略)ただ、これで問題になるのは、大関昇進の基準。直前三場所が対象となっているが、これを解決の場合にあてはめると、負け越した場所が含まれており、昇進の資格はないといわれてもやむを得ないだろう。それを昇進に踏み切ったのは、直前二場所を高く評価してだった。審判部は「今回は特例で、建前は依然として三場所で、これは今後も崩さない」といっているが(後略)
二場所の昇進が「特例」だと言っており、「建前は依然として三場所」とのことである。豊山の昇進と魁傑の昇進の間に、何かが起こったことは間違いない。
では、何が起こったのだろう?
…と言ってしまうと、答えを知ってるように聞こえるかもしれない。私が知ってるのは、だいたいどの辺りにこの変化が起きたのか、ということである。
どの辺で変化が起きたのか、時間をさかのぼってみたい。豊山の昇進から魁傑の昇進まで、約12年の中に答えはあるはずだ。
白鵬の立会いに関する私見
白鵬の立会いについて批判の声が囁かれているので、簡単に私見を論じておきたいので論じてみたら長くなってしまった。
もちろん問題となっているのは白鵬の取り口である。
そして、大相撲には禁手反則の規定があり、白鵬はそれには違反していない。
また、不文律にもない。不文律というのは、「顔を狙ったかち上げはしてはならない」といった類のもので、それまで誰も意識してなかったであろうかち上げの是非などに不文律は存在しない。
それでも白鵬のかち上げ(普通のかち上げが問題無いのは当然であり、以下問題視されているようなかち上げを普通にかち上げという)を批判したいのならば、本来はかち上げ禁止という規範があるべきか、あるいは、白鵬はかち上げをすべきでなかった、というような主張をすべきことになる。
その変種として、不文律だから良いのだ、という意見もある。これは非本質的と思われ、最後に述べてみたい。
他方、かち上げを問題とする側の動機を考えてみたい。
根本的な動機はさておき、私としては、脳震盪で勝負が決まるのはあるべき相撲の勝負決定ではないと思う。また、相撲で鼻血を見たくないという感情は理解できる。
どこまで問題視する側の気持ちを私が理解しているかは分からないが、このような動機で白鵬の取り口を禁止したいとする。
そうなると勝負所は、このような動機からうまく相撲のあるべき規範として「かち上げをしてはならない」などと設定できるかである。
脳震盪で勝負が着くのが嫌ということを、うまく相撲の規範として位置付けられるかを試みたい。
といっても、脳震盪で勝負がつくわけではなく、結局勝負は足が土俵外に着くか足以外の体が地面に着くか(以下、着地着体とする)で決まる。だから嫌と言っているのは、脳震盪を利用した勝負決定が嫌だと言っていることになる。
その理由としては、脳震盪に陥った者は無力で、その者に対しなお攻撃を続けるのが嫌というのがある。脳震盪といえばよくあるのが張り手だが、単にそれが野蛮で好ましくないという者もいるだろう。
個人的には、以下の感覚が批判を受ける根本的な動機だと思う。相撲技能は、勝負決定のための技か、自分に有利な体勢になるための技だろう。
後者の多くはそのために自分が下に入ったり安定させたりする、相手の腰を浮かすなど体勢を崩す、前捌きに勝つといったもので、脳震盪のための技は幾分かそれらから逸脱している。
過剰と言ってよいかは分からないが、禁手を主張する側からしてみれば、身体攻撃に直結し過ぎていて過剰ということかもしれない。
あとは、優等生的な理由だが、他のスポーツの脳震盪対策の進歩を考えると、相撲も何らかの対策をする、というのは合理的かもしれない。
規範として位置づけることにはあまり成功しなかった。トートロジー気味ではあるが、以上の理由により「相撲において脳震盪を目的とする攻撃は勝負に勝つための技能として過剰であり、やめるべきだ」
あるいは
「相撲において脳震盪を目的とする攻撃は力士の脳に対する強い損傷のおそれがあり、やめるべきだ」
という辺りの規範を考えたい。
また、血が嫌だということであれば、「積極的に流血させる技はやめるべきだ」となり、鼻への攻撃等がその対象となるだろう。
とにかく、これらの規範によって「かち上げはすべきでない」という結論は導けるだろう。
しかし、その妥当性を考える重要な要素がある。果たしてそのルールの適用範囲は妥当か、ということである。
以下脳震盪を念頭に考えてみたい。
脳震盪を防ぐためには、かち上げを規制するだけで事足りるのだろうか。
批判者が問題としているのは立会いのかち上げ張り差しのみのように見える。
それは、意識して隠している者もいれば、気づいてない者もいるだろう。
先程触れたが、脳震盪といえば張り手である。
前述のような規範であれば、そもそもまず当然張り手には及ぶだろう。
議論はそれだけに限られない。頭部への突っ張りは禁止されていないと思われるが、これも頭部への攻撃である。そのことと、張り手と突っ張りとの区別を困難とみれば、禁止の対象とする議論もありえるだろう。
さらに、相手が頭から当たって来たときの対抗措置や、頭からのぶつかり合いで結果顔に入り脳震盪が起きた例も見たことがある。
このような事例を無くすべきだというのなら、相手が頭から当たってきたときに頭への攻撃を禁止すべきだが、それを禁止したときに立会い頭から当たるのがルールの悪用と捉えるのであれば、そもそも頭から当たるのは禁止すべきだろう。
このように、脳震盪の防止の見地からかち上げの禁止を主張するのであれば、「なぜかち上げだけを禁止するのか」について説明が難しい。
さて、先に動機を述べたが、一般的には、張り手を禁止しよう、だとか、頭からぶつかるのを禁止しよう、だとか思ってた人はほぼいないだろう。
つまり、ここで動機と主張が妥当性をもつ内容にズレが生じたわけである。
自分の動機通りかちあげだけを禁止したいのであれば、張り手や、その他頭部攻撃全般はなぜ禁止しないのか、という問いに答える必要がある。
自分の動機はとりあえず抑えて、脳震盪防止の見地から必要な範囲の技は禁止すると主張するものとしよう。
そうなると、かなり相撲のルールがかなり大きく変更されるということには異論がないのではなかろうか。
そのようなルール変更をすべきだとはいえても、現行ルールの下で白鵬一人にそのような脳震盪を目的とする技の禁止を要求するのは、不当のように感じられる。
この話は極端に思われるかもしれないが、脳震盪対策は世界の趨勢のように思われる。今はそれが過剰反応に思われるかもしれないが、日本においても他のスポーツが十分な脳震盪対策を行う時代になったとき、ひとり大相撲だけがこれを怠るのであれば、力士となるべき子供や親から見捨てられるだろう。
脳震盪ではなく流血の防止から見ても同じようなことである。
流血を好ましくないからかち上げは禁止とするのであれば、張り手も同様だし、さらに頭のぶつかり合いで下に入った力士の頭が鼻にぶつかることは散見される。これらも禁止すべきだろう。
もちろんそれを禁止したい者はごく少数だろうが、だからといって流血防止のためかち上げを禁止するというのであれば、なぜ張り手等は良いのかという疑問に答える必要があり、これに答えられないのであれば他の流血が頻発する技も禁止するという主張をすべきだろう。
更に、白鵬は「やり過ぎ」という主張がある。頻度を問題とするものである。
これは、印象を正確に表現したものといえるだろう。一発二発あれをやっても印象には残りにくい。こういう相撲を連発するから我々の印象に残るのである。
しかし、主張として表現できることと、その主張が正当であることとは別の話である。
果してこの主張は正当なのだろうか。
この主張を素直に反映させるならば、「n回かち上げ張り差しをして相手を脳震盪or流血させたらアウト」となるだろうか。
ここまで具体的な主張は見たことがない。やはり形にすると違和感が強いのだろう。
つまりこれは愚痴に過ぎず、白鵬批判ないしルール批判としては正当性のあるようには見えない。
さて、このようなルールはありえないものなのか。
まず大きなくくりとして、このような「一度のゲームではセーフだが、複数のゲームで行うとアウト」というスポーツのルールは聞いたことがない。知識がないだけかもしれないが。
しかし、悪性が、反則負けとするほどではないが、累積すると無視できない、という程度のものはあるように思われる。それにもかかわらずそのようなルールがないのは、もしかすると相手の公平性の問題が有るからかもしれない。例えばかち上げ張り差し五回までとして、5回目に反則負けとなる場合、残り4回の力士は反則勝ちの利益を受けず、5回目の力士が利益を総取りすることになる。この不平等を上回るほどのメリットは見いだせないということかもしれない。
というわけで、おそらくあまり良いルールではないのだろうが、しかし不公平を甘受してでも採用したいというのであれば、ありえないルールではないように思われる。
ただ、やはり大きな現状変更ではあるだろう。
更に、大相撲はルールが曖昧だから良いのだ、それを乱す白鵬が悪いのだという主張がある。
しかし、ほぼ矛盾だろう。
明確にかち上げ禁止のルールはない。ということは主張者はグレーと思っているわけだが(問題無いと考える中にはそもそも曖昧ではないホワイトという見方もあるだろう)、正にグレーであるが故に白鵬はかち上げを行なっているわけで、そのかち上げを不当と評価するのであれば、そのかち上げが反則でなく大相撲に出現するに至った理由であるところの曖昧さは批判の対象になるだろう。
「禁止すべきではないが好ましくない」という主張がある。
しかしこれは、今までの議論の「禁止すべきか」を「好ましくないか」に置き換えればほとんどそのままですむ問題である。
まず禁止されていないならそれを試すのは相撲の進化ではないかという疑問があり、そうでないというためには相撲的な価値観として好ましくないという規範があることを示すことになる。
例えば脳震盪は好ましくないとか流血させるのは好ましくないという価値観があるだろう。しかし、それらであれば張り手や立会い頭から当たること等も同様に好ましくないことになる。
それでかち上げだけは好ましくないと主張するのであればそれと張り手等との区別の正当性を示す必要がある。
そうでなく張り手等も好ましくないという主張はありうる。
唯一「禁止」と「好ましくない」とで差があるとすれば、張り手等の禁止というのは大きな現状変更だが、張り手等が「好ましくない」というレベルなら受け入れやすいだろう。
これはこれで別の問題は生じるのだが、気力が残ってれば続く話題で取り上げたい。
更に、横綱の取り口ではない、という主張がある。
しかし、これは非本質的な主張であろう。横綱の取り口とされているものは、立会い相手の攻めを受けて立つというようなことで、かちあげだの張り差しだのをしないことが横綱の取り口とされていたわけではない。
さらには、この言が正しければ、小兵の技能力士が大関で連覇したらどうするのか。ふさわしくないから横綱にしないのか、横綱にして相撲を変えさせるのか。後者なら力士の成績を故意に落とすことに等しいが是認されるのか。ということを考えてないということは考えられた意見とはいえないのではないか。
そもそも地位によって望ましい相撲が変わるのは変ではないかなどなど、これはこれで種々の問題がある。
結論としては、単純だが、ルール論としてかち上げを含むある種の頭部攻撃の禁止というのは正当性があるが、これは大幅な現状変更を伴うものであり、白鵬一人の責任に帰するのは不当である。
かち上げのみを禁止する主張には、正当性があるとはいえない。
白鵬引退しろの類は論外であるが、Twitterでは有力の模様である。言ってる人間の品性が落ちるだけだと思うのだが、いかがだろうか。
令和元年秋場所初日 矢田部-東照錦
画像はhttps://gxyt4.app.goo.gl/MGuJe
2時間15分ごろ。
序二段湊班。
右手前が東照錦。軍配は東照錦。
同体の物言い。
同体取り直し。
勝負としては矢田部の勝ちで、ただ矢田部の膝が着くのが早いかどうか、という印象。
個人的には1個目の画像で矢田部の勝ちでよく、判断は不当。
令和元年秋場所初日 旭秀鵬-翔猿
6時間27分ごろ。
軍配は翔猿。
どう見ても翔猿が早いが、旭秀鵬の振り向き方と中山審判が目の前で何も言わないのは違和感。旭秀鵬の右手が早く着いてしまったということか?体勢からはそうは見えないが。
右手の不明瞭で判断の妥当性は不明としておきたい。
令和元年秋場所初日 千代嵐-白鷹山
画像はhttps://gxyt4.app.goo.gl/MGuJe
5時間20分ごろ。
幕下九重班。
右手前が白鷹山、軍配は白鷹山。
西方大島審判から物言い。
白鷹山の勇み足で軍配差し違い。
こちらからは見えないがそうなのだろう。
ご丁寧に角度を変えた画像が出たがちょうど頭に隠れて分からない。一見出てなさそうだが、蛇の目でもあったのだろう。